火炎と水流
―交流編―


#8 砂地の陰謀と水浸しの街


水流は排水溝を伝って店の中に侵入した。事務室の奥にある洗面台からにょっきりと顔を出す。幸い、近くには誰もいない。
「よっしゃ!」
水流は勢いよく飛び出すとビニール袋に入れて持って来た服を急いで着て通路へ出た。

店の中は壁も床も白くてつやがあったが、店の裏側はざらざらした灰色のコンクリートが剥きだしになっている。積まれた箱の上には埃が積もっていたし、壊れたままのドアやイスが無造作に置かれていた。
「さてと、あいつらうまくやってるかな?」
その時、ふいに事務室の方から男の話し声が聞こえた。ドア越しに覗いてみると、そこにはコンビニの店長と砂地がいた。

「ははは。どうです? うまくいったでしょう? これで泉野の土地はあなたのものですよ」
いやらしい笑みを浮かべて砂地が言った。
「ええ。ありがとうございます。これでうちも店舗の拡大ができますよ」
店長の顔にも黒い微笑が浮かんでいる。
(けっ! やっぱりあの二人グルだったんだな)
水流は心の中で舌打ちした。

「これで、泉野議員も辞職するしかないでしょう。何しろ世間の人間は新聞のいうことを真っ先に信じますからね」
「裏金が動いているとも知らず、可愛いもんですな」
砂地が言った。
「ずっと目の上のたんこぶだったんですよ。泉野は……。なまじ善人振ろうなどとしなければこんなことにならなかったのに……。馬鹿な男です」
店長も同意する。
(こいつら、はじめから……)
水流はあまりのことにふつふつと体内の水が沸騰するのを感じた。

「それでは、約束の物を……」
砂地が封筒を差し出した。店長は、それを急いで上着のポケットにしまう。
「では、私はこれで」
砂地が部屋を出ようとドアの近くに来た。その手がドアノブに掛かる前に、水流はばんっとドアを開けて怒鳴った。

「てめえ! 砂地!」
「おや、久し振りだね、水流君。元気だったかい?」
砂地が親し気に声を掛けて来た。
「うっせえ! 相変わらず汚ねえことやってやがって……」
「汚い? 大人に向かって失礼だろう。第一、それは君自身のことじゃないのかね? 谷川君」
砂地のうしろから店長が顔を出して言った。
「何?」
「店の品物は万引きする。その上、今度は店に忍び込んでの盗み聞きかい?」
「ふざけんな! てめえのやってることを棚に上げやがって……。こうなりゃまとめてやってやる!」
水流の足もとに水が流れ込んで来た。

と、そこへパートの女店員が入って来て店長に告げた。
「店長、店の方で、子どもが三人、面会したいと申し出ているんですが……」
「子ども?」
店長は軽く指先であごを撫でると意味あり気にうなずいた。
「いいだろう」
男は薄い唇の端を上げてわざとらしく水流の脇を通って出て行った。水流は止めなかった。いくら悪人でもあの男は人間だ。だが、砂地は……。

「待て!」
出て行こうとする砂地を追って水流は叫んだ。
「てめえだけは逃がさねえぞ」
「はは。仲間のところに行かなくていいのかい?」
砂地が振り向いて訊いた。
「うまいこと言って逃げようったってそうはいかねえぞ! おめえは泉野や淳、それに桃ちゃんの敵なんだからな!」
(この間は失敗しちまったけど、火炎のためにもこいつだけは絶対に許すわけにはいかねえんだ)
水流はビニール袋をポケットに突っ込むと砂地を追った。

男は店の裏口から外に出ると駐車場を抜け、道路に出ようとした。
「水流!」
背後から桃香が叫んでいる。
「そいつだよ! 泉野のお兄ちゃんのポケットにガム入れた奴!」
「何だって?」
思わず足を止めて水流が振り向く。
「ちっきしょう、あの野郎!」
ひらりと道路を跳び越えて行く砂地の姿が遠ざかる。

「水流!」
そこへ息も絶え絶えに走って来た桃香を抱きとめて水流が言った。
「ありがとな、教えてくれて。これですべてに合点がいったぜ。けど、どうしてここがわかったんだ?」
「公園に淳お兄ちゃんがいたの。それで……」
「そうか。でも、危ないから、桃ちゃんはおうちに帰って待ってるんだ」
「でも……」
心配そうな顔をする桃香。
「大丈夫だから……」
砂地の後姿がどんどん小さくなっていた。このままでは逃げられてしまう。水流は焦った。

「それじゃ、急いで帰って、火炎を呼んで来る」
そう言って駆け出す桃香に水流が叫ぶ。
「ほんとに平気だから。呼ばなくていいよ!」
火炎の力は借りたくなかった。が、桃香はもう角を曲がって行ってしまった。
「こうなりゃ、火炎が来る前においら一人で何とかしてやる!」
砂地が向かった公園の向こう側には大きな川が流れている。水流は自ら水に溶けるとその河から水を引き、巨大な竜のうねりとなって砂地を追った。


一方、コンビニでは子ども達が店長を問い詰めていた。
「泉野君に万引きの濡れ衣を着せるために彼のポケットにガムを入れるところを目撃した人がいるんです」
佐々木が言った。
「そうです。新聞の記事に書かれているのは事実ではありません」
石田も言った。しかし、店長は余裕で子ども達を見回すと静かな口調でこう言った。
「お友達を庇いたいのはわかるけどね、泥棒は泥棒。たとえガム一個でも盗んだことに変わりない。盗みは犯罪だ。ちゃんと法律にそう書かれているんだからね」

「だから、事実とちがうと言っているんです」
「やってもないことをやったなんて……。これは冤罪です!」
子ども達は主張した。が、店長はそれを一笑した。
「いやに熱心に庇うじゃないか。彼が議員の息子さんだからかね? 庇うといいことでもあるのかなあ。泉野くんにお小遣いでももらったの?」
子ども達は絶句した。

怒りを抑えて佐々木が質問した。
「店長さんはもらったんですか?」
男は一瞬だけ答えに詰まった。が、すぐに作り笑いを浮かべて言った。
「どういう意味かね?」
「佐原建設の人にです」
山本も突っ込む。
「……佐原建設? ああ、近く店の改装をする予定があるのでね。時々そんな話をしたことはあるよ。だが、お金をもらったことはないよ。むしろ私の方が工事のためのお金を払わないといけないからね。さっきもその手付金を払ったばかりなんだが、そのことを言ってるのかな?」

「それじゃあ、さっきまでここに佐原建設の人が来ていたということですか?」
「ああ。そうだよ」
「それで、その人に店長さんがお金を払ったんですね?」
山本が念を押す。
「そうだ。私の方が金を払ったんだ。間違いない。断じて佐原建設の人からお金をもらったなんてことはないんだよ。わかったかね?」
「本当ですか?」
「ああ、天地神明に誓ってもいい。これはみんな本当のことなんだからね」

「でも……」
子ども達は食い下がった。が、店長はのらりくらりと質問をかわし、大人の余裕を見せている。子ども達に焦りが見え始めた。
「さあさ、こんなことをいつまで言っていても始まらない。私も忙しいんだ。もう終わりにして君達もおうちに帰りなさい」
店長が言った。

「では、あと一つだけいいですか?」
佐々木が食い下がった。
「ああ、一つだけだよ」
わずかにいらつきながらも店長が言った。
「あの新聞の記事ですけど、まだきちんとした事実確認が取れていないのに、記事になるなんて変じゃありませんか? 事件が起きる前から原稿が用意されていたんじゃないですか?」
「何を言っているのかね? 事件があったから記事になったに決まっているじゃないか」
店長がやや声を荒げて言った。

「でも、新聞には、彼が万引きしたのは消しゴムだと書かれていました。けど、実際に彼のポケットに入っていたのはガムだと聞いています。いったいどういうことですか?」
「ちょっとした勘違いだろう。ガムだろうと消しゴムだろうと同じだ」
「だけど、新聞は事実を正しく伝える物ではないんですか?」
子ども達が追及する。店長はいらついて怒鳴った。
「いい加減にしなさい! まったく子どものくせにつべこべと……。君達も皆同じクラスだと言ったね。いいだろう。今度は担任の先生でも連れて来るんだね。まったくろくでもない教育をしているようだから……。子どもは素直に大人の言うことを聞いていればいいんだ。さあ、もう帰りなさい。仕事の邪魔だ」
そう言って店長は背を向けた。が、すぐに振り向いて言った。
「そうそう。私には教育委員会の知り合いもいてね。ちょっと相談してみることにするよ」
「……」
子ども達は黙り込んだ。

その時、店の自動ドアが開いて1羽の烏が入って来た。
「何だ?」
その烏は店の中を一巡すると、店長の頭に止ろうとするが、何度もすべり落ちそうになって髪をぐしゃぐしゃにした。
「うわっ! 何をする! このバカ烏め!」
しかし、烏はバサバサと羽を広げ、しわがれた声で鳴くと店長の頭を突いた。
「くそっ! やめろ! やめないと焼き鳥にして食っちまうぞ!」
店長は両腕を振り回し、烏の足を掴もうともがいた。それを見ていた客達は顔をしかめて店を出て行く。
「店に烏が入って来るなんて不衛生だ」
「こんな店で買い物なんかできないわ。行きましょ」
「くっそぉ!」
店長の顔が熟れたトマトのように真っ赤になった。すると烏は勝ち誇ったようにカア! と一声鳴いた。
「くそ! ただで済むと思うなよ! ほんとに焼き鳥にしてやるからな!」
そんな様子を呆気に取られて見ていた子ども達に対しても、店長は怒鳴った。
「おまえら、今おれのこと見て笑ったな!」
「いいえ。笑っていません」
三人は首を横に振った。
「いいや、笑った。このおれをバカにしてたんだな? 何て根性の悪い奴らだ。人の不幸を笑いものにして喜んでいるなんて……」
「そんな……」
「わたし達はそんなこと思っていません」
必死に反論したが、店長は信じなかった。
「何て悪いガキなんだ。まったく親の顔が見てみたいものだ」
すると、突然、烏が店長の上着のポケットからはみ出していた封筒をくちばしでくわえると、バサバサと天井の方へ飛んで行った。
「あ! 返せ! それは……」
店長は慌ててそれを取り返そうと両腕を高く伸ばして宙をかいた。烏はその店長の頭上をくるくると余裕で旋回すると子ども達の前にぽとりと封筒を落とした。その封筒の口が開いて一万円札が散らばった。
「あ! この封筒、佐原建設の印が押してある」
石田が叫んだ。
「それにお金がこんなにたくさん……」
封筒を拾おうとした山本を突き飛ばして店長が怒鳴った。

「これはみんな私のものだ! 手を触れるな!」
お金をかき集めて抱えている店長の頭に向かって烏が突進した。そして、足で髪を掴んだり、嘴で突いたりした。
「うわっ! やめろ!」
店長が喚く。その手から再びお金が散らばる。
「このお金は何なんですか?」
佐々木が封筒を拾った。その中にはまだ数枚の札が入っている。
「そ、それは工事の手付金だよ。さっきも言っただろう。この店の改装工事を委託したんだ。その手付金さ」

「でも、さっきは確か、手付金はもう渡したとおっしゃっていましたよね?」
佐々木が突っ込む。
「君の勘違いだよ。手付金はこれから渡すところなんだ。そのお金が証拠だよ」
店長は床に落ちた札をくつで寄せると拾い集めた。
「証拠? そうですね。このお札と封筒にはあなた方二人の指紋が付いているはずです。警察で調べてもらえばすぐわかるはず」
「それに、これから渡すお金がどうして佐原建設の封筒に入っていたんですか?」
「事前にもらっておいたんだ。封筒なんかいくらでもあるからね」

「言ってることが矛盾してます」
「矛盾? 君達こそ何を言っているのかね? いちいち大人の揚げ足取りなんぞして……。くだらん勘違いや聞き間違えで大層な口を利くもんじゃないよ。さあ、そのお金を返しなさい! それとも、君達も泥棒として訴えられたいのかね?」
「それは……」
「さあ、おれの金を返せ!」
店長は子ども達を突き飛ばした。その反動で石田が陳列棚にぶつかり、積まれていた菓子の箱が落ちて転がった。
「ちょっと! 何するんですか? 乱暴はやめてください」
「うるさいっ! 黙れ!」
店長は強引に佐々木の手から封筒を取り上げた。その拍子に店長の身体にかさって、棚にあったスナック菓子の袋が散らばる。

「石田さん、だいじょうぶ?」
「う、うん」
「ひどいわ! 大人のくせにこんなことするなんて……。もし、けがでもしたらどうするんですか?」
「こっちこそいい迷惑だよ。店の中でこんな騒ぎを起こされちゃね。あーあ、こんなに店の品物を散らかしちゃって……。床に落ちたら売り物にならなくなってしまうんだからね。いいかい? これらは君達に、君達の親に弁償してもらうからね」
店長が息まいた。

「自分でやったくせに……」
山本が呟く。
「何だと?」
店長が目を吊り上げて睨む。
「まったく、子どものくせに可愛げのない……」
男がぶつくさと文句を言った。その時、カチリと小さな音が響いた。石田のポケットからだ。店長がギラリとした目で彼女に近づく。

「今の音は何だね?」
「ボイスレコーダーです」
「ボイスレコーダーだって?」
「はい」
「そうか。盗み録りしてたというわけだ」
店長はあごを撫でると言った。
「まったく最近の子どもは何を仕出かすかわからないね。それも君達の担任の先生からの指示かね?」
「ちがいます」

「なら、素直にそれを渡すんだ」
「なぜですか?」
「いいからそれをよこすんだ!」
店長は無理やり石田のポケットに手を入れるとそれを取り出した。
「やめてください!」
子ども達が取り返そうとするが店長はそれを放さない。もめている間にスイッチが入ってさっきの会話が再生された。

――そうだ。私の方が金を払ったんだ。間違いない。断じて佐原建設の人からお金をもらったなんてことはないんだよ。わかったかね?
――本当ですか?
――ああ、天地神明に誓ってもいい

そこから聞こえる店長の声は明らかにさきほど子ども達に説明したこととは矛盾していた。
子ども達は互いの顔を見合わせるとうなずき合った。

「くそっ! こんなもの」
店長はそれを床に叩き付けようとした。その時、再び烏がやって来て、店長の耳元で「アホー!」と鳴いた。驚いた店長が油断した瞬間、烏はその手からボイスレコーダーを足で掴んで奪うと扉の外へ飛び去った。
「待て!」
店長が慌ててそのあとを追う。そして、子ども達とパートの店員だけが取り残された。


砂地は公園の裏手に来ていた。小高くなっているその場所からは、通りを隔てて、例のコンビニや小学校も見える。そこは佐原建設が工事を進めようとしていた場所だった。入り口には立ち入り禁止の立て看板。奥には重機や機材、大量の砂利や砂がうず高く積まれ、その頂上に砂地が立っていた。
「ははん。そんなところに逃げたってむだだぜ! 砂地」
水流が叫ぶ。
「水の力をあなどるなよ!」
水流が呼びよせた水が渦を巻き、泥水の波となって砂山を駆けのぼった。

水の勢いで砂地の足もとの土砂が崩れる。
慌てて隣の砂山に飛び映る砂地。だが、水流は容赦しなかった。逃げる砂地をどんどん追い詰めて行く。公園のすぐ裏手には川がある。水流はそこから更に水を呼んだ。

「へへん。どんなもんだい」
水流は水の中から人間化した上半身だけを出して、得意そうに指の先で鼻の下をこすった。水はどんどん流れ込んで来る。
「覚悟しな! 砂地。てめえの身体をまるごと泥水に沈めてやる!」
荒れ狂う濁流が男の身体を絡め取る。水に巻かれながらも砂地は更に高く積まれた土砂の上へと逃げのびた。
「無駄だ! どこへ逃げたっておいらに勝てるわけがねえんだ」
水流もそのあとを追う。辺り一面が泥水に覆われ、まるで茶色い海のようだ。水流はどこまでも砂地を追い詰め、繰り返し濁流に襲わせた。逃げ道を塞がれた砂地は裏山の頂上に立つと、不敵な笑みを浮かべ、言った。
「相変わらず単細胞な奴め。この勝負、おまえの負けだ」
「何だと!」
「聞こえなかったのかい? 君の負けだと言ったんだよ、水流君」
「ふざけるな! てめえこそ頭がおかしくなっちまったんじゃねえのか? この状況を見てからほざけ!」
水流が言った。だが、砂地は冷やかな目で見降ろしている。

「ふん。今のうちにせいぜいわめいてろ! おいらの方が上手だってことを今思い知らせてやるからな」
水流は周囲の水を思い切り巻き上げると、砂地の四方を水の壁で囲った。そして、いっきにその水を流し込む。水はそこにそびえる山よりも高い位置まで上り、滝のように落下した。凄まじい水の勢いは止まらなかった。土砂の山を呑み込み、砂地を呑み込み、水流の足元をすくった。
「おっと、危ねえ……。気をつけねえとな……」
少しばかり調子に乗り過ぎたかと周囲を見る。
「ん?」
水流はしばし目をしばたいた。思ったよりも水の勢いが強い。堤防が崩れ、水の勢いが増している。水流は少しばかり妙だなと感じながらも、自分の能力がそれだけ強くなったのだと納得し、砂地の方に振り返って言った。
「へっ! どんなもんだい。おいらの力でてめえなんざ丸ごと泥水に沈めてやる!」
水流は得意だった。しかし、それは凄まじい勢いで公園の方まで流れて行った。

「水が……。あの少年のやらかしたことか……?」
花芽が目覚め、するりと老木から抜け出ると風の匂いを嗅いだ。川は公園のすぐ裏手、土砂が積まれた山の向こう、300メートルほどの距離にあった。そこに続く土がめくれ、気脈が波打っていた。
「いかん。人間の子どもが……」
公園には淳達がいた。水はもうそこまで迫っている。だが、背中を向けていた子ども達は気がつかない。花芽はなだらかな坂を駆け下りて数十メートル先の彼らの手前で根や枝を張って水の浸入を防ごうとした。
「水が来る! 早く、ここから逃げるのじゃ!」
花芽が叫ぶ。
「え?」
淳や泉野が振り向く。見ると、裏山が崩れ、ものすごい量の水と土砂がこちらに向かって流れ落ちて来るのが見えた。

「逃げろ!」
子ども達がいっせいに走り出す。
が、水の勢いの方が早い。花芽は水を吸い、少しでもその到達を遅らせようとした。が、河から無尽蔵に溢れ出して来る水の量は尋常ではない。たちまち周囲は水浸しとなり、子ども達もそれに足を取られた。
「靴が脱げた」
「痛い! もう動けないよ」
「おれ達、ここで死んじゃうの?」
木の根に挟まれて動けなくなってしまった子の手を取って淳が励ます。
「バカヤロー! あきらめんな! ほら、力を抜いて。おれが押さえてるからそっと足を抜いてみろ」
「う、うん」
腰まで泥水につかり、泣いている女の子の肩を支えて泉野も言った。
「だいじょうぶ。もうすぐだよ。あの陸橋の上へ逃げよう」
しかし、水の力は強かった。木をなぎ倒し、ベンチや花壇を滅茶苦茶にしてまだ勢いを増している。

「水流!」
花芽が叫んだ。が、今は答えている余裕などなかった。水流の頭には砂地のことしかなかったからだ。

「へへ。追い詰めたぞ、砂地。今度こそおまえの最後だ」
水の大蛇を操って砂地を締めあげると、水流は得意そうに言った。
「ううっ!」
その水圧に砂地がうめく。
「へっ。これで終わりだ! ざまあみろ!」
更に水圧を上げ、男の身体を切り裂いた。瞬間。水の蛇が弾けた。
「何!」
弾かれた水流がもう一度少年の形となって水の上に立つ。が、その時、砂になった男の身体もまた集約し、人型になって嘲った。周囲に男の笑い声が木霊する。
「けっ! 何がおかしい?」
水流が怒鳴る。
「単細胞め。周りを見てみろ!」
「何?」
川から溢れ出た水が街を水没させようかという勢いで流れていた。運転席まで水につかったショベルカーが空しく天を仰いでいる。
「気がつかないのか? 公園の整備も、堤防の工事も皆、佐原建設が一手に引き受けていたのだよ」
「何だって?」
男はクククと楽しそうに笑いながら言った。
「もとより、堤防は崩れやすい砂でできていた。そこに君が水を流した。これはみんな君がやったことだよ。この大水にお友達は困るだろうね。いや、それどころか命さえ失くすかもしれない。きっと君を恨むだろうね」
「ちきしょっ! おいらをはめやがったな!」
水流はうねるようにしぶきを上げ、男に向かって突進した。

砂の男は呆気なく砕けたが、すぐに大きな岩の一塊になり、コマのように回転すると、勢いよく水流にぶつかって行った。
「うぎゃっ!」
少年の身体は砕け、水になって弾け飛んだ。
「水流……!」
それを見ていた淳が叫ぶ。
「水流がばらばらに……!」
「まさか……あれは……錯覚……?」
泉野もしばし目を瞬いた。が、砕け散った少年の身体はその泥水の中からみるみる再生を始めた。ぬらりと頭をもたげ、上半身が揺れる。

「きゃあ! お化け!」
子ども達が悲鳴を上げた。
「お化け?」
水流がゆっくりと頭を回す。恐怖に引き攣った子ども達の顔が見えた。
「水流……おまえは……」
淳が青ざめた顔で言った。

「見られちまったか。なら仕方がねえ!」
水流はざばっと水から飛び出した。下半身の一部はまだ固まっていない。そんな彼を恐怖の目で見つめる子ども達。彼らは衝撃のあまりそこから動けずにいた。が、再び砂地の攻撃により、水流の片腕が砕け散って水になった。
「くそ!」
水流はどうにか体の形を保とうとした。が、その間にも泥水のかさはどんどん増している。
「何とかこの水を戻さねえと……」
しかし、砂地は唯一土砂でせき止められていた山を崩した。そこからまた一気に水が流れ込んで来る。水は子ども達の腰の上まで来ていた。
「やべえ! このままじゃ……」
水流はみんなに向かって叫んだ。
「逃げろ!」
しかし、だれも反応しない。
「ばかやろう! 早く逃げるんだ! ここはおいらが食い止める! だから、おめえらは早く逃げてくれ!」
再び大岩の塊となった砂地が体当たりして来た。

「水流!」
淳が叫ぶ。
「おいらは大丈夫だから……。早く!」
再び水滴となって散った水流が頭だけになって叫ぶ。

「そうだ。今は早くみんなを安全なところへ……」
泉野が言う。が、皆、足がすくんで動けない。
「谷川君が……」
「あいつは人間じゃなかったんだ……!」
恐怖が子ども達の胸を覆っていた。